僕があこがれている人はいつでも「自分の絵」をやめずに描きつづけている人だ。
でもそんな人はどこにもいない、そういうふうに描かれた絵がいいはずがない。
きっとぼくは、そういうふうにも思っている。
だから、どこか彼女のことをもっと知ることを恐れているのだろう。
その正体は、「何か」をするために作っていたものが、でも「何」をするためのものなのか忘れてしまった。だが誰にもそのことを悟らせないために作ることがそのまま目的になってしまったあわれな人の姿なのだ。
そんなオチの物語は読まない方がまだ良かった。
ぼくらは生きなくてはいけない、そういうことだ。
そのためには知らない方がいいことも知らなくてはいけない
だれが決めたかは、知らない。
大人の遊びを年上の人に教わり、年下の人に教える
それはどこか楽しくないことのようで、楽しまなくては悲しくなってしまう
目的なんてないからこその酔狂、粋とはそのことである。そんな強がり…
村上春樹訳「グレート・ギャッツビー」読了。
そういう僕の向上心の半分は、軽蔑や不安でできているわけだが
J・ギャッツビーの向上心は、ほとんどが「愛」で占められている
それは「アメリカン・ビューティー」
美しい「主題」のようだが哀しい物語でもあった。
また、ひとつの「主題」
ギャッツビーの愛する人の夫のトムが一番
かわいそう(という視点)でもこいつ、2時間の映画だったら
絶対に愚鈍な悪役で
「よほどの間抜けだと思っているのだろう?…(略)
あるいはそのとおりかもしれん。しかしときとして、
洞察力みたいなものが僕には、備わるんだ。
なにをすればいいかそいつが教えてくれる」
なんてかっこいいこと言い出しませんよ。これ言うまでは
この人、僕のなかではジャイアンだったもの
とつぜん現れたよそ者に人生を滅茶苦茶にされるというのは、
世界ほぼ共通の文学のクリシェなのだろう
国柄自体がブレンデッドなアメリカのよそ者とは、いったい誰のことだろう?
(ヒント:自分が常にだれもが主人公なのだそれがアメリカ人の権利)
小説家の書き手も読み手もいつもそのことを考えているわけでは無いのだけども
よそ者は常に存在する
そして、つくづくよそ者は、華麗にふるまうのだ。
なぜだろう、そうせざるえないのだろうか
僕はその理由を知っていると思われているかもしれないがよく分からない
映画の
「アメリカン・ギャングスター」「アメリカン・サイコ」「アメリカン・スプレンダー」そして「アメリカン・ビューティー」
これらのタイトルは、すべて「よそ者」が「主役/スター」の映画だ(平凡な人間が突如に「よそ者」に変貌するものもあえて含む)
そこに「華麗なるギャッツビー」を違和感なく「アメリカン・ギャッツビー」として組み込むことこそ、アメリカを語るのにうってつけの方法論のように思える
「平凡」は「変貌」する、そしてなぜ「よそ者」は華麗に振る舞わざるえないのか?
それこそが僕が常々探していた研究にうってつけの課題であることも
まさに同時に行き着く結論なのでもある。
(知る必要のない冒険の末路について)